佐野市小中町生まれの正造は、衆議院議員として足尾銅山鉱毒問題に取組み、渡良瀬川沿岸の住民を救うため議員の職を辞して明治天皇に決死の直訴を行いました。人と自然の共生を願う正造の精神は、現代の人々へと受け継がれています。
田中正造の生涯
天保12年(1841) | 下野国安蘇郡小中村(現 佐野市小中町)誕生 | |
明治13年(1880) | 40歳 | 栃木県会議員に当選 |
明治23年(1890) | 50歳 | 第1回衆議院議員選挙当選 |
明治29年(1896) | 56歳 | 渡良瀬川大洪水 鉱毒水被害民と足尾銅山鉱業停止運動開始 |
明治33年(1900) | 60歳 | 渡良瀬川両岸被害民が大挙請願中、川俣事件起きる |
明治34年(1901) | 61歳 | 鉱毒事件を天皇に直訴 |
明治37年(1904) | 64歳 | 遊水池反対運動に励む |
大正2年(1913) | 73歳 | 河川調査からの帰途、病に倒れ、9月4日死去 |